説明
禅がインドから支那をへて日本に伝わって八百年余りになる。天台の止観や道元の正法眼蔵等には、集中、瞑想、三昧について書いてあるが、現代人にはむずかしい。戦後、日本にもインドのヨガが入って、次第に体操ヨガから瞑想のヨガに移行し、瞑想するヨガの人口も増えてきた。
しかし、集中と瞑想、三昧がどう違うか、集中、瞑想、三昧によってどんな変化、進化が人間の身心に生ずるかについて詳しく識る人は少ない。
私は、幼少からの神道の禊の行、二十五歳からの三十年余りのヨガ行によって体験したアーサナ、呼吸法、集中、瞑想、三昧の各々によって生ずる身心の変化、注意して渡らなければならない状態、症状、悪い症候、良い状態、進歩の印、証を得る前の魔境、不安定、霊との交渉、いままでの在り方を止めてより高い次元に飛躍した状態、三昧、超意識、自由の境地、等について詳しく説明し、ヨガ行に励む人々が誤りなく悟りの自由の世界へ到達できる指針を、この書で説明した。瞑想に励む人にとって、明らかな指針となれば幸いである。
本山 博
一章 ヨーガの身心に及ぼす影響
一 ヨーガの目的と立場
二 ヨーガの八階梯
(一)道徳的訓練
(1) ヤーマ/(2) ニヤーマ
(二)身体的訓練
(3) アーサナ/(4) プラナヤーマ
(三)精神的訓練
(5) プラティヤハーラ/(6) ダラーナ/(7) ディアーナ/(8) サマーディ
三 ヨーガ行の身心に及ぼす影響の要約
二章 精神集中、瞑想、三昧を種々の角度からみる
一 精神集中について
(一)存在論の立場でみた精神集中
(二)意識の単純化
(三)雑念が湧く
(四)雑念と催眠状態
(五)催眠状態でも部分的にESP、PKが働く
(六)雑念が湧いている状態の生理学的解釈
(七)精神集中から瞑想ヘ
二 瞑想について
(一)存在論の立場でみた瞑想
(二)アストラルの次元での部分的合一
(三)アストラルの物と物理的次元の物との相違と意味上の一致
(四)瞑想の状態を深層心理学及び生理学の立場で捉える
(五)瞑想にも種々の段階がある
(六)瞑想における超常能力とその世界
(七)瞑想におけるクンダリニーの活動
三 三昧について
(一)存在論的な立場からみた三昧
(二)場所的個について
(三)アストラルの次元での場所的存在
(四)三昧に入る前には魔と出会う。信仰が大切
(五)トランスの状態と場所的個との相違
(六)アストラルの次元、カラーナの次元の三昧で生ずる超常現象
(七)アストラルの次元とカラーナ次元との三昧の状態の違いを生理学的観点からみる
(八)悟ってもカルマは果たさねばならぬ
三章 精神集中、瞑想、三昧のための指針
一 行に入る前の心得
二 精神集中
(一)状態
(二)雑念が湧く
(三)雑念を払う
(四)雑念の効用
(五)精神集中の達成
三 瞑 想
(一)状態
(二)呼吸
(三)姿勢
(四)雑念
(五)雑念及び魔境を払う法
(六)幽体離脱
(七)沈黙の声
(八)広がりを感ずる
(九)瞑想の達成
四 三 昧
(一)三昧のはじまり
(二)三昧の続き
(三)三昧の深化
(四)三昧と自由
(五)神人合一とアジナ・チャクラ
一章 ヨーガの心身に及ぼす影響
一 ヨーガの目的と立場
ヨーガは聖なる対象あるいは神との統一、合一を目指す行法である。
聖なる対象、例えばタントラヨガ等でいうチャクラ(註1)、マンダラ(註2)、マントラ(註3)等、あるいは神に精神集中してこれと一致合一するには、これらの聖なる対象と対立して存在する自己の否定が、まず行なわれねばならない。そのためにはかなりの苦しみを経ねばならぬであろう。聖なる対象に対立する自己の存在性が否定されて――この時身心脱落と言われるような体験を得るわけである――初めて、対象と合一しうる。その時自分の存在は、対象をも、それと対立する自分をも包摂する、より高い次元に飛躍している。対象と自分の存在の根源に還ったとも言えるであろう。ここに一種の悟りの境位が開けてくる。
このような存在次元の高まりを繰り返して、遂には神との合一にも達しうる。最高の悟りを達しうる。それを目指すのがヨーガであり、対象(客観)も自分(主観)もない両者の統一の存在境地に立つのが、ヨーガの立場である。
これに対し科学の立場は、常に対象と自分との対立が根底にある立場である。科学でいかに精確に事象を捉え、そのメカニズムを明らかにしても、その事象を観察し、思考する主観は、対象である事象の内に入りこむわけではなく、常に客観である事象と対立したままである。客観について得られた知識は、どこまでも客観についての知識で、主観、つまりその対象を認識する主観についての知識ではない。
これに対し、主客合一のヨーガの立場でうる知識は単なる客観についての知識でなく、主観と客観とを根底から支え、存在せしめるものの知識、主観にも客観にも通じる知識である。
科学の立場で客観についての認識を行なう場合、基本的には、感覚という、物理的次元の存在である肉体に付属した感覚器官に依存する。これに対し、主客合一のヨーガの立場では、客観に対立する主観の立場を否定し、それをこえているが故に、本質的には感覚に頼る必要はない。感覚に頼らずして、主客合一の意識<超意識>は、事象の本質を直観する――叡智――。
このような主客合一の存在次元に達するために、ヨーガは八つの修行階梯をもつ。