説明
序文
この本は二十年程前から毎月二回行なわれているヨガ行の会(七星会)で、数多くのヨガ、仏教等の聖典を講義したものの内、天台小止観(坐禅の指南書)について行なった講義の速記を元にして、それに筆を加えて本としたものです。本は上下二冊で、上巻は坐禅の方法、即ち坐法、息を調える法、心身を調える法、止―精神を一点に集中し止める、或は心をもこめて一切の現象への執着から離れて、それらを超え静止した空、無我の境に住ずる―及び観―一切の現象への執着から離れてそれらを超えた悟りの境に達し、一切をあるがままに観ずる―を達成する方法を詳述したものです。下巻は、止観を行ずるにつれて、善根が発相する、するとそれを防げるべく諸々の魔が出現してくる。それを防ぎ、それに打ち勝ってゆくにはどうすればよいか。坐禅によって諸々の病気を治すことができるがそれにはどういう方法があるか。最後には、悟りの境にも種々の階梯があって、如何に悟りの究極の境に達してゆくべきかを説き明かしたものです。
この天台小止観の講義は、五十人余りの十年~二十年のヨガ行を行なってきた人達に、内輪で話したもので、始めは本として出版する意図はなかったのですが、それらの人々が、この講義を私達少数の者達だけのものにしておくのは勿体ないから、本として出版して多くの人々に心の拠り所を与えることができたらいいのではないでしようか、とすすめられたのと、もう一つは、講義の速記をガリ版にしたものを二、三の書店主がみて、今、人々が心の拠り所を求めて、宗教書がよく売れます、是非この講義を本として出版して欲しいという希望を、或る人を介して伝えてきたものですから、それでは本にしようということになった訳です。
ヨガの会の人々の言うことにも、書店主の言うことにも共通していることは、人々の心の拠り所となるから出版して欲しいということです。私はヨガの会の人々、書店主の言った言葉の中に、現代人の心の悩み、弱さ、不安定さを見出すことができるように思いました。この本が読者の皆さんの心の拠り所をつくるきっかけとなり、心の自主性を確立し、更には霊性を開発するきっかけともなれば、それは私の心から念願する所であり又心からの喜びであります。
私は満五才位の時から、霊能者である養母と実母の二人に、往復四里余りある、小豆島の真中辺にある弘法の滝という山又山の中の行場へ、よく連れてゆかれました。何時だったか、はっきり思い出せませんが、母に御降臨になった神様から始めて滝に打たれるように命じられ、滝つぼの中の石の上に立ちました。数十尺上から落ちる滝の水は、遠慮会釈もなく、耳、目、鼻、ロの、穴という穴からどんどん入って息はつまって死ぬ思いです。子供の頭には、上から落ちる水の強打は、頭が割れる程痛いものでした。滝つぼの中の石の上に立ってから何分経ったかしれませんが、急に水が頭の上に落ちなくなって、息ができるようになったので、滝つぼの中にある飛び石を這うようにして、ようやく滝つぼの外に出てきました。朦朧とした目で二人の母をみると、養母の方に神様が御降臨になって、滝に向かって呪文を唱えておられる様子でした。滝つぼから出てきた私に、実母が「おまえがあまり苦しがるから、神様がお降りになって、九字を切り呪文を唱えて滝の水を左の方へ寄せて下さったのだよ」と教えてくれました。併し、母の説明を聞いても、始めはぼーっとして、母の言うことがすぐには理解できませんでした。それもその筈で、滝の中へ入った途端般若心経をあげるどころではなく、水は冷たい、滝つぼは深くてこわい、目や耳、鼻、ロから水が入って目はあけられない、息はできない、頭は割れるように痛い、無我夢中でもがいていたら急に水が頭の上に落ちなくなって何か楽になったので、夢中で飛び石を伝って滝つぼから出てきたのですから、ぼーっとなっていた、暫くは放心したようになっていたのだと思います。併し、行がすんで、山を下って帰りながら、母が繰り返して、神様が御降臨になり滝に向かって九字を切り「エイッ」と気合をかけ呪文をお唱えになると、本当に水がスーッと左に寄っておまえの頭に落ちなくなったのだよと教えてくれる内に、だんだんと、急に水が頭の上に落ちなくなって、楽になった時のことがはっきり思い出され、あれはやはり神様の御神力によって出来たことに違いないという実感が、子供である私の心を強く強く打ちました。その時のことは、四十年経った今日でも鮮やかにはっきり思い出せます。
以上のように、子供の時から、宗教的行や神様の御降臨、神秘な現象という宗教的神秘的雰囲気の中で育った私は、子供の時から自然にお経を唱え、行をし、長じて青年になると、宗教書、哲学書を読み、大学では哲学、形而上学を専攻し、数年間毎朝三時に起きてヨガの行を三~四時間致しました。それによって、何回も耳の手術をして弱かった身体が壮健となり、神様のお声を聞き、御姿も拝めるようになり、予知、予見や所謂テレパシー等もできるようになり、更に深い定に入ることもできるようになりました。心も無執着な自由な境に何時でもおれるようになったように思います。そうなりますと、ヨガの行、坐禅の行を一人だけのものにしておくのは勿体ない、信者の皆さんにも教えてあげて、皆にも心身の健康と、心の向上、霊性の開発を達成してもらいたいと、心から願うようになりました。この私の念願を信者の皆さんに話した所、五十人余りが賛成して下さり、二十年前にヨガの会が誕生し、今日迄続いている訳です。熱心な人々は確かに、心身の健康、心の自主性、霊性の開発が達せられております。それらの体験談は、「奇跡と宗教体験」という本の中に収められております。
私がヨガや坐禅を始めたのは、子供時代から、宗教的神秘的な雰囲気の中で育ったせいでありましよう。そして自ら行によって体験したことを、哲学によって論理的に客観的に把握したいと思って哲学を習った訳ですが、哲学の論理が謂う所の絶対者とか神とかいうものが、真実の神とか絶対者をありのままに把握して説明しているのかどうかという点で、私は大いに悩み、論理は単なる論理に終わっている場合が多いように思うようになったのです。その故は、神を論じ、絶対者を論ずる哲学者そのものが全くの普通の人間であり、宗教的行或は道徳的実践によって自らの心を高め、一歩でも神の境位に近づこうと自ら努力し、その上で身をもって神と合一するとか、感得するとかしている哲学者が如何に少ないかを見出したからであります。勿論少数の哲学者の中には、ソクラテスやプロチノス、エックハルト、西田幾多郎のように、自ら宗教的行や坐禅によって心を磨き、高めて、自ら掴んだ真理を一生掛けて論理化した立派な哲学者もいます。併し、一般の傾向として、哲学は論理に終始して、論理の示す対象が果して存在するかどうか、哲学的論理的説明が正しくその対象を掴まえているかどうか甚だ疑わしく思えてきたのです。それで、二十数年前、或る人からヨガを習い、母の指導の下に、自ら神との出合い、宗教体験を得るべく一生懸命努力精進し、その結果、自らも宗教体験や悟りを得、それによって七星会を開き、人々を導いてきました。
併し、今度は七星会で人々にヨガを教え始めて一年経ち二年経つ内に、自分が体得した境地を人に伝えることが如何に難しいか、又説明の時、主観的要素が入り易いことにも気付きました。又、ヨガ行、坐禅を一生懸命にしてゆく程に心は勿論身体にも大きな変化、特に自律神経系の機能に大きな変化が生じ、普通人とは各臓器、組織の働きが違ってくることが解りました。そこで、宗教的行―ヨガ、坐禅―によって心身にどんな変化が生ずるかを客観的に捉えその実体を明らかにし、それを行法の実践の内に取り入れるべく、そして、人々に客観的データによって説明するべく、脳波計、心電計、脈波計、精神電流現象測定器、皮膚温計、呼吸計、インピーダンス測定器、私の作った自律神経機能検査器等によって、生理心理学的に測定し、又、超心理学的実験を行なってきました。その結果普通人と宗教的霊能者、精神異常者との区別を生理心理学的に明らかにすることができ、且つ、心には時空を超えて働く面のあること、それらの能力がどんな条件の時、どんな自律神経機能状態になった人において働くかということ等が、二十年近くの実験を通して次第に明らかになってきました。
以上で私がヨガや坐禅をするに至った内面的必然性や動機、そして如何に行をし、行によって得た体験の内容を、如何に科学的に客観的に研究し把握してきたか理解して戴けたかと思います。
私は古来から坐禅の指南書として尊ばれ、禅を志した人々が一度は読んだでありましょう天台小止観を解説するに当たり、よく文献学者が緻密に古典を調べ一字一句忠実にその意味を注釈されていくのとは違って、自らヨガや坐禅を行じて体得した智慧と、自らの心身に生じた変化の体験、それらについての科学的研究の成果等の凡てを背景に持ちながら、こまかな字句や順序に執われず、自由に解説を進めました。勿論、重要な用語は仏教辞典、サンスクリット辞典を参照して、誤解のないように注意を払いました。
以上のような立場に立って、科学時代である現代に住む一人の人間である私の書いたこの本が、科学の作り出した物質文明にその心を押しつぶされそうになっている人々に、心の自主性、独立性を確立するきっかけを与え、更に霊性の開発にも役立つことを念願しつつ、序文を終えたいと思います。
一九七〇年一〇月一七日
本山 博
序文
一 前言(止観について)
二 具縁第一
止観の完成を助ける五つの縁
三 呵欲第二、棄蓋第三
欲を離れて煩悩を捨てよ
四 調和第四
一 食、睡眠、身体、息、心を調える方法
二 心の寬急の相の調え方、禅定の出入の方法
五 方便行第五
止観の完成を助ける補助的手段について
六 正修行第六
一 坐において止観を修す
(1) 初心の?乱を対破するに止観を修す(坐禅中の雑念、心の乱れを防ぐ方法)
A 止観と止の三種類について
B 対治観と正観、所観と能観
(2) 心の浮沈する病を対治するに止観を修す(心が沈む或は浮くのを治す為の止観)
(3) 便宜に従って止観を修す
(4) 定中の細心を対治するに止観を修す(定中の無意識の働きを対治する為の止観)
(5) 定慧を均斉ならしめんがために止観を膠す
二 縁に歴、境に対して止観を修す(日常生活の中で止観を修する方法)
(1) 縁とは何か境とは何か
(2) 超作―果を求めずして己が本分を尽くす―こそ日常生活の中で止観を修する根本である
(3) 六つの縁(一、行、二、住、三、坐、四、臥、五、作作、六、言語)に歴、止観を修す
(4) 六つの境(一、目に対する色、二、耳に対する声、三、鼻に対する香、四、舌に対する味、五、身に対する触、六、意(識)に対する識現象)に対して止観を修する