説明
現代は、個人の確立と、人間が身・心・霊よりなる存在であることの自覚と、それに基づく実生活の確立が最も大切である。
現代の世相を見ると、工業技術の発達によって、人びとは物質的豊かさを十分に享受しているように見える。五十~六十年前の戦争時代、戦後の、物も食糧も家もない時代を過ごした世代にとっては、夢のように贅沢な、飽食の時代である。さらにコンピュータの発達によって、個人が世界の何れの政府、組織、会社、個人についても政治的、経済的な情報、科学、医学についての情報、趣味についての情報を難なく入手でき、知識を獲得しうる。国家、性別、民族を越えて、コミュニケーションが個人と個人、個人と国家等の間で容易に行なわれる。
今こそ、個人の確立が最も重要である。反社会的、暴力を主としたテレビ、インターネットにおけるバーチャルな情報によって、人びとが何の苦もなく、良心の片鱗をも見せずに人殺しをし、金を盗み、社会不安を募らせている。豊かな物質的生活だけでは、人間の心を決して正しく成長さすことのできない証であるように思える。
人びとは物質的豊かさと身体の健康を求めて右往左往しているように見える。人の上に立つ人びとは、自己の利益、権利を追求するのに汲々としているようにも見える。上から下まで、良心というものが忘れられているように思える。
人間は本来、身体だけのものでなく、心をもち、心の奥底に魂と良心をもつ、多重次元の存在である。
魂、良心に目覚めないで、物の原理に従って物質的豊かさのみを求めることに汲々としている時、自然を壊し、人間は自らの手で地球を住めない所にする可能性が大きい。
魂、良心に目覚める時、人や社会と共存し、自然と共生できる広い世界、深い世界が開けてくる。
今こそ、魂、良心に目覚める時である。
本書は、魂とは何か、良心とは何か、魂に目覚める時、真の健康、身・心・霊の健康が得られることを詳述したものである。
序
人と社会を幸せにする良心
―人はなぜ悪を行ない、善を行なうのだろうか―
序
- 人間の悪と苦しみ
- (一)人はなぜ悪を行なうのだろうか
(1)現代の世相/(2)資本主義と、人間、社会、国の物化現象/(3)物とは何か/(4)物の原理に従った心が悪を行なう/(5)悪とは何か /(6)悪の原因と種類 - (二)善人が苦しみ、悪人が栄えるのはどうしてか
(1)善人が苦しむ訳/(2)悪人が栄えるのはどうしてか/(3)ヨブの話し/(4)民族の神、国の神、土地の神――災いをもたらす――/(5)カルマの世界では神に会えない/(6)カルマを超えたら神に会える/(7)私の、神に会える迄の歴史 - (三)カルマによる災いと善果
(1)前生のカルマによる病気/(2)家のカルマによる災い/(3)土地のカルマによる災い - (四)この世の道徳は相対的なものにすぎない
(1)神の力、精神の力による物の創造/(2)この世の物は善悪のバランスの上に成り立っているとも言える/(3)善悪が相対的なものにすぎないのなら、人を害してもいいか/(4)人の世の道徳は相対的なものである - (五)人はなぜ苦しむか
(1)仏陀の苦しみ/(2)人はなぜ苦しむか
- (一)人はなぜ悪を行なうのだろうか
- 善と良心
- (一)人はなぜ善を行なうのか
- (二)善とは何か
(1)偽善と、ひとりよがりの善/(2)善とは何か
- 善の心(良心)はどこにあるか
―― 善の心は神とつながっている ――- (一)良心は社会性と個人性を両立さす
(1)身体の個別性と普遍性/(2)感覚における個別性と普遍性/(3)感情における個別性と普遍性/(4)理性における個別性と普遍性/(5)良心における個人性と社会性の一致、両立 - (二)良心はどこにあるか
―― 良心は神とつながっている ――
(1)良心は脳の中にあるか?/(2)良心は感覚に具わっているだろうか/(3)良心は感情に具わっているか/(4)科学的理性は良心の住処であろうか/(5)共感は良心の住処である/(6)良心は人間の魂の内奥に存在する/(7)良心に具わる善の規範は、神、創造神の先験的、普遍的善のイデアに基づく
- (一)良心は社会性と個人性を両立さす
- 魂、良心に目覚める方法
- (一)超作とは
- (二)瞑想
人間の健康
- 人間の構造
―― 身・心・魂よりなる一全体的存在 ――- (一)身体(物質としての身体とエネルギー系としての身体)
- (二)心
(1)意識/(2)無意識 - (三)魂
(1)魂とは/(2)アストラル次元の魂/(3)カラーナ次元の魂
- 人間の身・心・魂における健康とは何か
- (一)身体の健康
- (二)心の健康
(1)心の健康/(2)現代は人間が物になっている - (三)魂の健康
(1)アストラルの魂の健康/(2)アストラル次元の魂の社会性と悪/(3)カラーナの魂の健康/(4)カラーナの魂も悪魔になりうる
- むすび
―― 地球社会実現のためのカラーナの魂 ――
89頁
1)偽善と、ひとりよがりの善
或る人が、自分の会社の上司で心臓病の人が、よく胸の真ん中が痛くなる、それを介抱してあげる、親切にしてあげる、窓を開けて新鮮な空気を入れる、ニトログリセリンの心臓発作の薬をもってきて飲ませる、種々と親切にして相手の危機を助け、命が長らえるようにしてあげても、その気持ちの中に、このように親切にすれば昇進させてもらえるかもしれないという自己保持の欲が働いていたなら、それは不純な善である。
一種の偽善である。偽善では自己保持という物の原理が働いていて、真に相手の立場で相手を助ける愛の裏付けがない。自分を顧みない、相手を助けるだけの心の時、それは善意の行為と言える。
或る組織の中で、或る仕事を成就するのに会議が行なわれ、種々な議論が出た。
その結果をその会議に出たスタッフ(A)に上司が聞いたとする。その議論の中で、無益な、あるいはその仕事を成就するのに害になると思える発言を聞いて、それは誰が言ったのかと上司がAに聞いた時、それは言った人を守るために言えない、と言ったとする。Aはその発言者を庇う善意で言ったのかもしれないが、それは仕事の成就を妨げるものであり、また、言った本人も、自分の言ったことに責任がもてる正直な人でなければならない。Aが不利な発言をした人を庇う余り、上司に言われたことを言わないのは、その発言者の責任をうやむやにすることであり、その発言者に真に責任ある行為、上司の前でその発言内容が不利であっても必要である理由を説明さす機会を与えないことになる。Aは真にその発言者を責任ある人間としないという点で、Aのとった行動は偽善であると思う。
善とは、或る人間を真に成り立たせ、成長させることである。発言者の言や考えが実際には間違いである、仕事を成就せしめない考えであることが上司との対話において明らかになれば、それだけ自己の無知を知り、成長することになろう。
もし発言者の考えが、上司との対話において、仕事の成就に役立つことが議論の末判明したとする。ところが、Aが発言者が困るだろうと思ってその名前を隠して言わなかった場合、その正しい議論が上司には届かない結果になる。Aの、発言者のためによかれと思った善意は、物事を成就せしめない結果となる。もしAが上司に、「誰それがそれを言った」と言ったとしたら、その発言者に恨まれると思って発言者を上司に告げなかったとしたら、それは発言者を守るのでなく、自分を守るためであり、偽善である。このような人は、一見善意の人に見えて、世の中に混乱と問題を生ぜしめる人である。このような人が案外多いのは困ったことである。
最近の大都会では独りだけの孤独な人が多い。その人達がよくペットに犬や猫を飼う。おいしいもの、人間が食べるようなものを食べさせて、猫はネズミを捕らない。骨のついた魚は食べられない。これでも猫か!と思うほどである。猫は元来夜行性の動物で、夜出歩いてその本領を発揮する。何キロメートルも先まで行って、夜を他の猫との集会に費やすのである。それが、マンションの一室に閉じこめられて外に出られないので、猫も犬もノイローゼになる。
これらは犬や猫を助けるのでなく、犬や猫を人間が自分の思いのままにするひとりよがりの善意であり、本当に猫や犬をその本来の姿で生かすものではない。
2)善とは何か
上述のところから、善とは、自らには何の善果も求めない、無碍無所得の神の愛と善に従って助ける自然と人についての十分な理解と共感をもって、自然や人がその存在を全うし、さらに、人間が霊的成長をするように助けることが善であると言えよう。
人間が、例えば黒人のキング牧師が黒人の悲惨な姿、白人との不平等を悲しんで、膚の色でなく、人間をその内なる心において互いに理解し、真に平等な人間社会をつくり出そうと訴え、黒人をその社会的地位を向上させ(例えば1962年になって初めて選挙権を獲得してアメリカ市民となった)、黒人を助けようとしたのは、自分のためではなく、「黒人を救う」という心の底からの良心の・・・・・ほとばしり、神の愛の・・・・・ほとばしりに従って行動したのである。しかし殺されることになった。心の奥からほとばしり出てくるのが良心の叫びであり、それは決して死を恐れるものではない。
この、多くの人びとを助けよう、その存在を全うさせよう、向上させようという良心の声は、全ての存在を無碍無所得の愛と全能の智慧と、必ず物事を成就せしめる創造力をもった神の働きが人間の魂の中で働いているからである。
神の普遍的愛に基づいた普遍的善 がキング牧師の魂で働き、―これは全ての人間の魂の中で同じように働いている―
この神の働きに呼応した人間の魂の働きこそが真の愛、善の根源であると思う。
-後略-