説明
宗教とは何かを問い、それを明らかにするのが本書の目的であるが、その前に、本書を書くに当たっての私の立場を明らかにしておきたい。というのは、宗教を問題にする時、それを個人、社会、あるいは地理的環境における宗教現象として外から観察し研究しうる対象として取り上げる立場、例えば宗教史、宗教現象学、宗教社会学、宗教地理学、考古学かあり、さらに、宗教的行為や宗教体験における個人の心理状態、過程を内省によって明らかにする宗教心理学かある。
以上の研究法は、宗教現象を外から観察し研究しうる対象とするか、内省によって知りうる内的心理的プロセスを対象にするかの違いはあっても、それらの外的あるいは内的現象としての対象について、一定の客観的法則や因果関係を見出そうとする経験的科学であると言えよう。
例えば宗教史学者として有名なミルチア・エリアーデは、「純粋な宗教現象はありえない。常に社会的、経済的、心理的現象である」「宗教現象も歴史的に条件づけられたものである」(エリアーデ著作集第8巻『宗教の歴史と意味』前田耕作訳 せりか書房九八頁~九九頁)と言う。つまり宗教現象を、社会組織、経済活動、個人の心理的条件との相互関係、因果関係によって生じるものだと理解する。これは、物理学のように、実験を通して事象の因果関係を研究するものではないが、観察しうる、あるいは内省しうる経験的事象について因果関係を見出そうとする、一種の経験的科学である。
宗教史、宗教社会学、宗教心理学、宗教現象学、考占学によって得られた多くの優れた知識、歴史的事実を本書は取り入れたい。
エリアーデは同書で、「宗教とは聖なるものと人間との出会いである。その出会い、聖なるものの把握も、歴史的条件づけを通してである。しかし歴史的条件づけは、その歴史的に条件づけられる存在そのものが何であるかを説明できない」「歴史的資料は、資料以上のものを語りかけている」と説明して、歴史的条件づけに従って宗教現象を理解しようとする経験科学の一つである宗教史の限界を自覚している。同様の限界が宗教社会学、宗教現象学にもあてはまる。それは、宗教の本質である「聖なるもの、神、絶対」は、外的事象として感覚し、観察されるものではないからである。
宗教心理学についても同様の限界が考えられる。「聖なるものとの出会い」を体験した宗教者あるいは聖者によって語られる、出会いにおける心理状態、心理内容、聖なるものの啓示は、聖なるものについて内省的に把握された事実であっても、聖なるものそのものではない。宗教心理学は「聖なるものそのもの」を対象とできな では、聖なるものと出会い、聖なるものと一つになった体験をした宗教者、聖者についてはどうであろうか。
上述の宗教学の諸分野の専門家、学者のように、聖なるものを直接把握することができないのと違って、自ら聖なるものと一つになることができた聖なるものを、感覚ではなく、存在直観によって直接把握した人は、聖なるものそのものとなり、聖なるものそのものを体得している。その時、この聖者は、聖なるものが自然や人間を創造し、それらを生かし支えている愛と智慧と創造力を自らのものとして、自然や人を生かしている。それは単なる思想や観念でなく、存在を創造し形成し支える力である。これらは感覚でなく、感覚を超えた存在そのものを直観する、直観によってのみ捉えうる。物や対象の認識を基本的には感覚的知覚に依存する科学では、この直観とその内容は把握できない。
直観によって聖なるものそのものとなり、聖なるものそのものを把握しうる。
従って、聖なるものと一つになった人が語る時、それは単なる知識、観念でなく、愛と智慧に満ちて、人や自然を生かし支える創造力である。経験科学も自然科学もそれを対象としえない。
では、「聖なるものと一つになる出会い」は絶対普遍のものかと問われると、そうでないと答えざるをえない。出会った聖なるものは、その究極において絶対普遍のものであるが、次のような理由で、聖なるものとの出会いも相対的なものである。
「究極的存在=神あるいは絶対(神を超越している)」は、修行者が自らの自力行によって自己否定を行なうと、それに応じてその自己否定を達成し、より高い存在次元に進化せしめるために、その修行者の現在の存在次元境位を空化せしめる。そして、その修行者の存在全体に流入し、これをより高い存在次元に上げる。ここで霊的成長が生じ、聖なるもの、絶対との出会いが生じるが、それはその修行者の高まった霊的存在次元で行なわれるのであって、絶対そのものの境位ではない。ここで出会った聖なるものは、絶対そのものでなく、その修行者の霊的次元に降下した聖なるものであって、相対的なものである。しかしこのような霊的成長が繰り返されて、遂には、神との、あるいは絶対との出会いが達成される。その時、神あるいは絶対との出会いが生じる。
では、絶対あるいは究極的存在としての神と出会いうる程に霊的に進化した聖者、神人が神や絶対と出会った時、その出会いは絶対のものか、普遍的なものかというと、そうではなく、相対的性質をもった普遍的なものと言わざるをえない。その理由は、聖者も神人も、或る場所で或る時代に生き、その時代と場所で発達した文化、言語、思想の内で育ち、その時代性、場所性をもっている。絶対との出会いで絶対そのものと一つになり、把握しても、それを表現するとき、絶対そのものを直接捉える直観は人間の言語にはならない。人間の言語、概念、思想を用いて表現する限り、絶対との出会いも相対的に表現され、その時代、場所、文化、思想に限定され では、絶対との出会いそのものは普遍であり、絶対であるかというと、相対的である。聖者も神人も、存在をもつ限り、絶対あるいは究極的存在との出会いも、それが一時的であれ継続的であれ、或る聖なる存在と神、絶対との一つの出会い、一致であり、神、絶対の働き、内容は、聖者、神人の存在性を通して顕現する。その限り、相対的なものとなる。
しかし、相対的であっても、この出会いはその内に絶対そのもの、究極的存在のもつ働き、智慧、創造力、愛、自由を包含し、体現したものであるから、その聖者、神人たちの説く教えの内には普遍的なものが含まれている。例えば仏教もキリスト教もイスラムも、その内容に違いかあっても、民族をこえた愛を説き、絶対や神へ近づく人間進化の道を教える。
この本では、今までの各分野の宗教学によって明らかにされた宗教現象や歴史的事実を取り入れ、まず、それらの学問の言う「宗教とは何か」を語らせ、有史以前からの宗教の進化について述べ、次に、それらと比較しつつ、私自身の聖なるもの、絶対との出会いにおいて得た彼岸の智慧に基づいて「宗教とは何か」について述べ、宗教の進化について述べる。その宗教の進化が、本質的には霊的成長に基づいており、霊的成長に応じて心、魂による物の支配力が増大していくこと、霊的成長、宗教の進化、この世における人間の物の支配力が平行して進んでいること、そしてこれらを全て支え、進化、増大せしめているのが、神、絶対の経綸によるこの世あるいは霊的世界の進化発展であることを論述してみたい。
次いで、近代から現代にかけての個人、社会における宗教現象、例えば宗教離れ、世俗化、それに対向する新宗教の勃興について、諸種の宗教学の明らかにした事実を取り入れつつ、その事実の生じた理由について、私の宗教体験に基づいて説明したい。
最後に、宗教とは何かについて、体験的直観によって得た智慧に基づいて論述し、近未来の地球社会に適応した新しい世界宗教とはどうあるべきかを述べたい。
宗教について思うことは、何時の時代、何れの場所においても、「真の宗教とは、愛と智慧によって人に生きる力と指針を与えるものである」ということである。
1998年8月8日 マウイにて 本山 博
- 序
- 一 宗教とは何か
- 二 宗教の進化
- (一)人類はその始源から聖なるものとの出会い―宗教をもっていた
- (二)私の、聖なるものとの出会いの進化
- (三)人類の宗教の進化
- (1)霊魂との出会い
- (2)呪術
- (3)シャーマニズム
- (4)自然崇拝
- (5)多神教
- (6)最高神の宗教
- (7)唯一神、絶対無(空)の宗教
- 三 人間の霊的成長に応じて認知直観能力が進化し、精神による物の支配力が増す
- (1)カルマの法則下にある霊
- (2)純粋精神(プルシャ)について
- (3)唯一神
- 四 宗教の進化と、人間による物の支配と人間社会・国土の支配との相関
- 五 近代から現代にかけての宗教離れと新興宗教の勃興
- (一)宗教離れの始まり
- (二)反世俗化運動
- (三)一九七〇年代以降の新々宗教とその特徴
- 六 新しい世界宗教が必要
- (一)宗教の根源と人間
- (二)科学は人間存在の根源を究明できるだろうか
- (三)宗教は人間存在に生きるカと指針を与える
- 参考文献